『水の東西』は、現代の国語で学ぶ評論文です。有名な作品なため、教科書にもよく取り上げられています。
ただ、本文を読むとその内容や筆者の主張が分かりにくい箇所もあります。そこで今回は、『水の東西』のあらすじや要約、テスト問題などをわかりやすく解説しました。
『水の東西』のあらすじ
本文は、大きく分けて4つの段落から構成されています。ここでは、各段落ごとのあらすじを簡単に紹介していきます。
①「鹿おどし」は、竹のシーソーの一端に水受けがついていて、その筧(かけひ)の水が少しずつたまり、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーが傾いて水をこぼすものである。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて優しい音を立てる。「鹿おどし」は、我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調している。
②私はニューヨークの銀行の待合室で、この「鹿おどし」を見たことがある。だが、人々は鹿おどしよりも窓の外の華やかな噴水に心を和ませていた。「鹿おどし」は流れる水、「噴水」は噴き上げる水と言える。ヨーロッパでもアメリカでも、町の広場や庭園には見事な噴水があり、風景の中心になっている。それはまるで、音を立てて空間に静止しているように見えた。
③「鹿おどし」は時間的な水、「噴水」は空間的な水だと考えさせられる。日本人は古くから、せせらぎや滝、池など水を見ることを好んだが、噴水だけは近代までほとんど作らなかった。日本人が噴水を作らなかった理由は、日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、造型する対象ではなかったのだろう。
④日本人は、形なきものを恐れない心を持っている。「鹿おどし」は見えない水、「噴水」は目に見える水だと言える。我々は水を実感するのに水を見る必要さえない。ただ断続する音の響きを聞き、その間際に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えると、「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する最高の仕掛けと言えるかもしれない。
『水の東西』の要約&本文解説
「水の東西」は、「東洋(日本)」と「西洋(ヨーロッパ)」の水に対する考え方の違いを述べた評論文です。
筆者はまず、第一段落と第二段落で「鹿おどし」と「噴水」という、日本と西洋における二つの水の芸術の違いについて述べています。そして、両者を対比する表現として次のように述べています。
日本の「鹿おどし」⇒自然に流れる水・時間的な水・目に見えない水
西洋の「噴水」⇒噴き上げる水・空間的な水・目に見える水
「鹿おどし」は、自然に流れて時を刻むものであるため、目で直接見なくてもその風情を感じ取ることができます。
一方で、「噴水」は人工的に噴き上げて揺れ動く空間的なものなので、目で直接見るからこそ、その華やかさを楽しむことができます。
この違いが生まれるのは、日本人と西洋人の伝統や感性の違いに根差していると筆者は主張しています。
日本人にとって、水は自然に流れる姿が美しいのであり、噴水のように人工的に圧縮したりねじ曲げたり、粘土のようにして造る対象ではありませんでした。
また、日本人は「行雲流水」という仏教的な考え方を昔から大切にしてきました。「行雲流水」とは、空を行く雲や川を流れる水のようにすべてを自然に任せることです。
つまり、一つの物事に執着せず、ありのままの自然を受け入れることこそが素晴らしいという価値観です。こういった考え方が古くからあったため、日本人は形のある人工的な水(噴水)ではなく、形のない自然に流れる水(鹿おどし)を好むようになったのではと筆者は分析しています。
最終的に筆者は、私たちは水を感じるのにもはや水を見る必要すらなく、間接的に心で味わえばよい。そして、「鹿おどし」は日本人が水を鑑賞する行為の極致を表すものであると述べています。
これはつまり、「鹿おどし」は日本人が水を鑑賞する行為としては、到達することのできる最高の境地(究極の芸術)である、という意味です。
『水の東西』のテスト対策問題
次の傍線部の仮名を漢字に直しなさい。
①キンチョウが高まる。
②ユルやかな流れ。
③トロウに終わる。
④セイジャクな雰囲気。
⑤シュコウを凝らした作品
⑥フンスイが美しい。
⑦空気をアッシュクする。
⑧ドクトクの雰囲気。
まとめ
『水の東西』は、高校教科書には頻出の評論文です。ぜひ正しく内容を理解できるようになって頂ければと思います。なお、本文中の重要語句については以下の記事でまとめています。