『サッカーにおける資本主義の精神』は、現代文の教科書で学ぶ評論です。ただ、本文を読むと筆者の主張が分かりにくい部分もあります。
そこで今回は、『サッカーにおける資本主義の精神』のあらすじや要約、テスト対策などを含め簡単に解説しました。
『サッカーにおける資本主義の精神』のあらすじ
本文は、行空きによって5つの段落から構成されています。ここでは、各段落ごとのあらすじを紹介していきます。
①全てのスポーツの中で最も人気のある種目は、サッカーだろう。だが、そのサッカーをアメリカ人がそれほど好まないのはなぜなのか?アメリカ人にその理由を聞けば、彼らは「サッカーはあまり得点が入らず、つまらないからだ。」と答える。ここで問題なのは、なぜアメリカ人だけが得点の少なさを退屈と感じるかである。
②サッカーには、オフサイドという難しいルールがある。これは、守備側のプレーヤーの背後でボールを待っていて、攻撃に転ずるようなプレーが禁じられているものだ。こうしたルールは、アメリカで考案されたアメリカン・フットボールやバスケットボールなどのスポーツには見られない。逆に、ラグビーやホッケー、アイスホッケーなどのイギリスで生まれたスポーツにはオフサイドのルールがある。サッカーがアメリカで人気を得られない原因は、オフサイドというルールが関係しているのではないか。
③サッカーの起源は、「マス(大集団)・フットボール」などと呼ばれた村や町単位で行う集団のゲームで、前近代的共同体の祭りの一種だった。このゲームは祭りそのものであり、最も重要な特徴は、「一点先取」で終わることだった。そのため、祭りの快楽を長く維持するためには、得点は遅いほどよかった。実はオフサイド・ルールはこの精神を継承したものであり、得点までの過程をできるだけ引き延ばすためのルールだったのだ。
④こうした歴史から、サッカーの醍醐味は、「終わり」=「ゴール(得点)」への高揚感にあり、オフサイド・ルールは試合の過程を引き延ばすためにあることが理解できる。だが、サッカーは近代化の過程で「一点先取」のゲームから「点取りゲーム」へと転換した。つまり、「終わり(ゴール)」の後の視点が組み込まれたのだ。そこで、「サッカーは資本主義の精神を反映しているのではないか」という仮説が成り立つ。実際、サッカーが本格的に普及していく時期が、イギリス資本主義の覇権が確立していく時期と正確に対応している。
⑤一方で、ここには、反復されて複数化した終わりはもはや真の終わりではなくなるという矛盾が生じる。バスケットボールやアメリカン・フットボールに見られるオフサイド・ルールを無視した攻撃は、「終わり=目的への先走り」の表れである。めまぐるしく繰り返される得点シーンからは「終わり(ゴール)」が終わりとしての意味を失っていく過程を見ることができる。現代社会は、終わりを消耗し、終わりが終わりとしての意味を失っていく社会だ。イギリスで生まれたサッカーが、ヨーロッパやラテンアメリカで人気があり、アメリカで受け入れられないのは、サッカーが資本主義の古典的段階の精神を反映しているからである。
『サッカーにおける資本主義の精神』の要約&本文解説
筆者はまず、スポーツ大国であるアメリカでなぜサッカーの人気がないのかについて分析しています。それは、オフサイドルールが関係しているのではないか?ということです。
元々、サッカーは、村や町で行われていたマス・フットボールという祭りの一種でした。この祭りでは一点先取でゲームが終わってしまうため、長ければ長いほど祭りを楽しむことができました。そのため、オフサイドによってわざと得点が入りにくいようにしていたのです。
このゲームにおいて、終わりまでの過程を引き延ばそうとする祭りの精神を継承したのがオフサイドルールだったと説明しています。
しかし、時代が進むとともにサッカーは「一点先取」のゲームから「ゴール(終わり)」を組み込んだゲームに変化しました。ここには、同時期に確立していった資本主義の影響が見て取れる、と筆者は言います。
なぜなら、資本主義も「終わり(投資の回収)」を無限に先送りすることで成立する仕組みだからです。
例えば、資本家が土地や建物を購入して、利益を回収したら、今度はまた別の土地や建物に資金を投入するような流れは、まさに終わりを無限に先送りすることです。
このように、サッカーというのはイギリスで生まれた古典的な資本主義の精神を反映しているのではと筆者は述べています。
一方で、アメリカで考案されたバスケットボールやアメリカン・フットボールでは、オフサイド・ルールは排除されています。それは、アメリカが「終わり」を消耗させる資本主義社会の最先端の地であるからです。
資本主義が発展していくと、「終わり(投資の回収)」をたくさん反復することから、できるだけ速く「終わり」に到達しようとする欲望が出てきます。つまり、反復のテンポを速くしようとする欲望です。
現代で当たり前のように行われている、株式の短期売買などはまさに早く利益を回収しようとする資本主義の最先端な行いです。
こういう「終わりの無限化」つまり、「終わり」ということ自身が終わることは、オフサイドルールを導入するサッカーには含まれていない考え方です。
そのため、「終わり」への高揚感を醍醐味とするサッカーはアメリカでは受け入れられないということです。
最終的に筆者は、「アメリカ社会にサッカーが定着しないのは、サッカーが資本主義の古典的段階の精神を反映したスポーツだからである」という結論で締めくくっています。
これはつまり、サッカーは初期段階の投資回収を目的とする古典的な資本主義が前提となっているスポーツなので、終わりが終わりとしての意味を失っていく最先端の資本主義を前提とするアメリカ社会では受け入れられない、という意味です。
「終わりを重視するサッカー」と、「終わりを無限化するアメリカの資本主義」という対立軸を理解することが、この評論文のポイントとなります。
『サッカーにおける資本主義の精神』のテスト対策問題
次の傍線部の仮名を漢字に直しなさい。
①大会がカイサイされる。
②タイクツだと感じる。
③デザインをコウアンする。
④ゲンミツな審査。
⑤成長をソガイする。
⑥旅行をマンキツする。
⑦キンヨク的な考え方。
⑧コウヨウをもたらす。
⑨体力をショウモウする。
⑩フモウな議論をする。
まとめ
以上、今回は『サッカーにおける資本主義の精神』について解説しました。ぜひ定期テストなどの対策として頂ければと思います。なお、本文中の重要語句については以下の記事でまとめています。