「心身二元論」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?別の言い方だと、「物心二元論」とも言います。
どちらも現代文や倫理の用語としてよく使われ、特に難関大学の入試問題にはよく出てきます。ただ、哲学となると内容が難しく感じる人も多いと思われます。
そこで今回は「心身二元論」について具体例を交え、なるべく簡単にわかりやすく解説しました。
心身二元論・物心二元論とは
まず、「心身二元論」の意味を調べると次のように書かれています。
【心身二元論(しんしんにげんろん)】
⇒物(身体)は延長を本質とし、心(精神)は非延長的な思考を本質とするから、両者は異質な二実体であるとするデカルトの説。物・心の間の依存関係や相互作用が説明できないという難点がある。物心二元論(ぶっしんにげんろん)。
出典:デジタル大辞泉(小学館)
「心身二元論」とは簡単に言うと「精神と身体は別の物であるという考え方」のことです。
※「心身二元論」≒「物心二元論」と覚えて問題ありません。
最初に、辞書の説明の補足をしておきます。「物は延長を本質とする」とありますが、「延長」とは「広がりのこと」だと考えてください。
簡単に言うと、「縦・横・高さがあること」です。すなわち、「縦・横・高さ」のいずれかがあれば、「物」と言えるわけです。
逆に、「縦・横・高さ」がなければ、それは「物」とは言えません。何だが難しく説明していますが、要するに、
「物」=目に見える姿や形があるもの。
「精神」=目に見えないもの。
と考えて問題ないです。
そして、「二元論」とは「正反対のものを比較して考えること」を表します。例えば、「男と女」「光と闇」「善と悪」「白と黒」「月と太陽」といったものです。
つまり、「心身二元論」の場合は「精神」と「身体」が正反対の物と位置付けられているわけです。
元々、この考えは哲学者の「デカルト」という人が提唱しました。
「デカルト」は、「肉体は心の入れ物にすぎない」という主張を行います。言いかえれば、「身体よりも精神の方が優れている」と主張したわけです。
ここで大事なのは、「心身二元論」の根本にある考え方は「精神>身体」ということです。
この考えが良いか悪いかは別として、「精神の方が優れている」などと言ったので、様々な議論が起こったということが言えます。
デカルトの物心二元論とは
デカルトは、学問の出発点として「考える私」を置きました。
彼の有名なセリフである「我思う、ゆえに我あり」とは「世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない」というものです。
すなわち、「どんな状況であろうと、自分が今考えているということだけは疑いのないものだ」という意味です。
この考える私こそが「精神」なのです。
では「考える私」にとって確実に認識できるものは何でしょうか?
例えば、物体の色や音など、感覚でとらえられるものは確実とは言えません。なぜなら、見間違えたり聞き間違えたりすることがあるためです。
確実に認識できるのは、「物体の空間的な広がり」です。
このように、デカルトは「認識する主体である精神」と「認識される客体である物体」という二つにより自身の認識論を組み立てました。
つまり、精神という心のはたらきと、広がりや重さを持つ物体という二つにより、世界は成立していると考えたのです。
この考え方を、「物心二元論」と呼びます。そして、この「物心二元論」を人間に当てはめた考え方が「心身二元論」なのです。
心身二元論の具体例
「心身二元論」の例としては、「臓器移植(ぞうきいしょく)」が挙げられます。
「臓器移植」とは「手術によって人の臓器を他人に入れること」です。
例えば、Aさんの心臓や肺、肝臓、腎臓といった主要な臓器を、違う人物であるBさんに移植するようなことです。
健康な人から部分提供される場合と、亡くなられた人(脳死状態)から臓器提供される場合があります。
「心身二元論」を正しいと主張する人は、「臓器移植」に賛成です。なぜなら、人間の体は機械の故障と同じであり、具合の悪いところは修理すればいいと考えているからです。
一方で、「心身二元論」を間違いと主張する人は、「臓器移植」に反対です。その理由は、人間の体は精神と同一化しており、片方が異なればそれはもはや同じ人間ではないと考えているからです。
後者のような考えを、「一元論(いちげんろん)」と呼びます。つまり、「肉体と精神がセットで、初めて人になる」という考えです。
一般的に、日本人は「一元論」で考える人が多いです。
日本人は、亡くなった人を「火葬(死体を火で燃やすこと)」して弔います。そして、残った「遺骨」などはお墓の中にちゃんと残します。
あれはつまり、「亡くなった人の魂(精神)」=「骨(肉体)」と考えているからこその行動です。日本人は昔から仏教的な考えを持っているので、遺骨をしっかりと納めるのです。
対して、「二元論」が主流のヨーロッパでは「土葬(どそう)」をします。
「土葬」とは「土の中に死体を埋めること」で、亡くなった遺体をそのまま土の中に埋葬するような行為を指します。
「土葬」をする理由は、亡くなった後の「肉体」はその人とは全く別物と考えているからです。
このような二元論的な考え方は、今に始まったことではなく、はるか昔の紀元前のヨーロッパからあったものでした。
例えば、有名な哲学者である「プラトン」は、「霊肉二元論」と言い人間の精神と肉体は別物であると主張していたと言われています。
心身二元論の問題点
ここまで「心身二元論」について解説してきましたが、「心身二元論」にも問題点はあります。
よく言われるのは、「道徳的な問題」です。
「心身二元論」は、心と身体を完全に分割します。そして、身体を精神よりも下とみなします。
したがって、身体を機械と同じように扱ってしまう怖さがあるのです。
元々このような考えは、近代以降に生まれました。
近代では、「人間の精神こそが何よりも素晴らしいものだ」という考えが広まりました。
そして、物質のような目に見えるものではなく、「精神のような目に見えないものこそが人間の本質である」と多くの学者が主張したのです。
その結果、デカルトが主張する「心身二元論」という考えが生まれたわけです。
しかし、冷静に考えてみると私たちの肉体はケガをすれば痛いと感じますし、ストレスがたまると胃が荒れたりもします。普通に考えれば、どう見ても別々のものではありません。
確かに、「心身二元論」により、西洋医学が発展してきたという歴史もあります。しかし、日本は伝統的に言えば東洋医学の国です。
そのため、身体にメスを入れる手術や臓器移植は、遺伝子的にみても拒否反応が出るのは当然でしょう。
これは良い悪いというよりも、それぞれの国が歩んできた歴史の違いにあるのではないでしょうか?
日本は伝統的に「仏教」の国ですが、ヨーロッパは「キリスト教」の国です。日本人は、「万物に魂が宿る」という考えをずっと信じてきました。
「全ての物に魂がある」という考えは、ヨーロッパ人の考えとは正反対のものです。したがって、個人的な見解としては、「心身二元論」は日本人の気質には合わないと考えています。
もちろん、日本人の中でも色々な意見の人がいるでしょう。そのため、「これが正解・不正解」などと言えるような問題ではないのは確かです。
心身二元論の使い方・例文
「心身(物心)二元論」は、実際の文章でどう使われるのでしょうか?以下の例文で確認しておきましょう。
- デカルト以来、精神と肉体を異なる実体として考える心身二元論が主流になった。
- 現在の西洋医学は、デカルトの心身二元論という考え方が元になっている。
- デカルトは心身二元論をとなえ、人間とそれ以外の動物を完全に区別した。
- デカルトの物心二元論は、自然を機械と見なす機械論的自然観をもたらした。
- その学者は、一元論的な立場から物心二元論について激しく批判した。
- 心身二元論には、臓器移植や脳死など我々にとって様々な問題がある。
- 心身二元論と近代の人間中心主義は切っても切り離せない考え方である。
入試現代文の評論では、デカルトの「心身二元論」を否定的に論じる内容が多いです。
具体的には、自然を機械のように見なす「機械論的自然観」や人間を上位に置く「人間中心主義」への批判といったものです。
また、身体と物体を別とみなす「心身二元論」は、「人間本来の身体が持つ豊かな多様性を切り捨てる考え方である」とした内容も多くあります。
まとめ
以上、本記事のまとめとなります。
「心身二元論」=精神と身体は別の物であるという考え方。
【具体例】=臓器移植・土葬など。
【問題点】=道徳的な問題(身体を機械と同様に扱う怖さ)。
「心身二元論」は哲学的な要素が強い言葉なので、初めての人にとっては難しく感じるかもしれません。しかし、内容としてはそこまで難しく考える必要はないです。この記事をきっかけにぜひ正しい理解をして頂ければと思います。