『山月記』は、高校現代文の教科書で習う有名な小説文です。ただ、実際に本文を読むとその内容や作者の伝えたいことなど多くの疑問点が生じます。
また、読書感想文などに関してもどのように書けばよいかが分かりにくいです。そこで今回は、『山月記』のあらすじや感想文、テスト問題などをなるべく簡単に解説しました。
『山月記』のあらすじ
『山月記』は、大きく分けて7つの段落から構成されています。ここでは、各段落ごとのあらすじを簡単に紹介していきます。
①李徴は大変優秀な青年であり、若くして進士となった。だが、自尊心が強く協調性にも欠けていたため、地位の低い官吏に満足できずに辞職した。その後、郷里で詩人を志したが、文名は揚がらず、生活のために再び役人の職に就いたときには、同輩は既に高位にあった。不満はますます募り、ついに公用の旅の途中、発狂して行方知らずとなった。
②翌年、李徴の旧友である袁傪は公務による旅行中、人食い虎に襲われそうになるが、それは虎に変身した李徴であった。二人は再会を喜び、昔を懐かしむ。そして、袁傪は李徴に虎の身になったいきさつを尋ねた。
③李徴はこう言う。一年ほど前、公用で止まった宿で不思議な声が聞こえたので、外に走り出し、駆けていくうちに私は虎になっていた。なぜこんなことになったのかは、自分でも分からない。それ以来、自分は獣の所行を繰り返してきた。今では一日の内に数時間は人間の心が戻るが、その時間も日ごとに短くなっていく。人間の心を失うことは恐ろしいし哀しい。だから、人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。
④李徴は、詩人を志しながら目的を果たせなかった無念さを告白し、自分が作った詩の伝録を依頼した。袁傪はその詩を聞き、素晴らしさに感嘆しながらも、一流の作品となるにはわずかに欠けているところがあるとも感じた。李徴は自らを嘲るがごとく詩人への変わらぬ夢を語り、今の思いを即興の詩に述べた。
⑤李徴は、虎になった原因が全く思い当たらないわけではない、と言う。李徴の内心には、臆病な自尊心と尊大な羞恥心があり、それが自身を人から遠ざけ、自分や妻子、友人などを苦しめ、外形を内心にふさわしいものに変えてしまったのだと語った。そして、李徴は悔いと悲しみに胸を焦がして月にむかってほえ、誰一人この気持ちを分かってくれる者はいないと嘆いた。
⑥別れる際、李徴は故郷にいる妻子の面倒を見て欲しいと袁傪に頼んだ。そして、この事を先に頼むべきなのに、詩を優先した自分の考え方が、自身の姿を虎にしたと自嘲する。最後に、袁傪に対して、自分の今の姿をもう一度お目にかけようと言い、二度とこの道を通らないようにと忠告した。二人は涙の内に別れた。
⑦別れを告げて出発した袁傪は、言われた通り丘の上から先ほどの草地を眺めた。すると、一匹の虎が草の茂みから躍り出て、月に向かってほえたと思うと、再びもとの叢に入り、二度と姿を見せることはなかった。
『山月記』のテーマ解説
『山月記』は、過剰な自意識を制御できずに虎となってしまった男の悲劇を通し、芸術にとりつかれた人間の内面に潜む苦悩や矛盾を描いた物語です。
もとは、中国に伝わる『人虎伝』がモデルとなっており、唐代における漢文調が特徴の文体となっています。この作品の主題を簡単にまとめると、以下の3つとなります。
- 人間存在の不条理
- 自意識の過剰に悩む人間の姿
- 芸術に執着する者につきまとう宿命的な苦悩
1.は、人間は何かに宿命づけられた人生を生きるしかないという運命論的な思想。
2.は、人間は自尊心や羞恥心にこだわり、他人からどう見られているかを常に意識せざるを得ないという悩み。
3.は、人間は芸術のためには自分や友人、家族すらも滅ぼしてしまうという芸術至上主義的な苦悩を表しています。
共通しているのは、人間の苦悩を描いた作品ということです。人が虎になるという不条理、自尊心や羞恥心といった誰もが持っている人間の性質、芸術を追い求めるものなら必ずつきまとう宿命的な悩みを描いたのが、この作品の大きな特徴だと言えます。
李徴が虎になった理由は?
『山月記』という作品には一つの疑問点があります。それは、李徴はなぜ虎になったのか?ということです。虎以外の動物ではダメなのでしょうか?
この点において、本文中から判断できるのは次の3つの箇所です。
①なぜこんなことになったのだろう。分からぬ。全く何事も我々には分からぬ。理由も分からずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずにいきていくのが、我々生きもののさだめだ。
②ともに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。俺の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、俺の外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。
③本当は、まず、このことのほうを先にお願いすべきだったのだ、俺が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。
出典:『山月記』中島敦
要約すると、
- 自分は虎になる運命で、それを変えることができなかったため。
- 臆病な自尊心と尊大な羞恥心により、自分の中の「猛獣」を制御できなったため。
- 妻子よりも詩業の方を優先するような男で、人間的な感情に欠けていたため。
となります。
以上の箇所が、本作においてはっきりと言及されている部分です。
ここからは推測の域になりますが、「虎」というのは中国において百獣の王とも呼ばれているほど凶暴な動物として知られています。また、古くから権力の象徴を表し、龍と同格の霊獣とも考えられてきました。
一方で、虎は森の中で単独で一頭で生活をしており、犬やライオンのように群れで生活するようなことはありません。そこには、一種の「孤独さ」「寂しさ」のようなものが感じられます。
この事から、李徴の内側に秘める「強さへの憧れ」「自己顕示欲の塊」「周囲と一線を引く孤独さ」といった性質が膨れ上がり、「虎」という生き物になったのではと考えられます。
もちろん、明確な理由というのは作中に書かれていないため、はっきりと「これ」といった答えがあるわけではありません。したがって、本当の理由というのは作者のみが知る事だと言えます。
『山月記』のテスト対策問題
次の傍線部の漢字を書きなさい。
①地中にマイボツする。
②職を失いヒンキュウする。
③タイダな生活をおくる。
④作品のコウセツを問わない。
⑤ザンギャクな行為。
⑥オクビョウな性格の人物。
⑦秘密をバクロする。
『山月記』の感想文の書き方
学校の課題で、『山月記』の感想文が求められることがあります。読書感想文は、はっきりとした正解があるわけではありませんが、正解に近いような書き方はあります。
本作の場合は、李徴の生き方を自分に照らし合わせて書く書き方が望ましいでしょう。
具体的には、①「臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持つ性格」②「詩という芸術への執着心」③「切磋琢磨に努めることをしなかった」といったことです。
今回は、①を例にして感想文(800文字以内)を書き上げました。
山月記を読み、まず興味をそそられたのは「李徴が虎に変身する」という設定である。
人間が虎になるというのは通常ではありえないことだが、李徴の告白により極限状態における人間の苦悩や悲劇がとても身近で現実的なことのように感じられた。
特に共感を覚えたのは、李徴が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を悔いていたシーンである。李徴は自分には才能があると自負していながら、たえずその才能の不足が暴露されることを恐れて、師につくことも友人と切磋琢磨して努めることもしなかった。
また、才能があると半ば自負しているために、平凡な人と交わるのを恥としており、そのために次第に人から遠ざかって一人で怒ったり悶えたり恥じたりして、結果的に臆病な自尊心を増長させ、尊大な羞恥心に振り回されることから抜け出せなくなってしまった。
このような事態に陥ることは、今後の人生において誰もが起こり得ると思った。例えば、勉強や部活において表面的には自分に才能があると信じる一方で、心の奥底では才能がないのではないかという不安があり、それを人に知られたくないと思うような心情である。
また、他の生徒と接する中で、表面的には人と交際することを恥ずかしいと思う一方で、中途半端に自分に自信があるため、つまらない人間とは付き合えないと思うような心情である。
自尊心や羞恥心などは、本音では言えないものの、心の奥底では誰もが持っている感情ではなかろうか。本作の中にも、「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが各人の性情だという」という印象深い李徴のセリフがある。私もこの考えには納得がいった。
人間の心の中には、欲望や自負、虚栄などの感情、つまり「猛獣」がすんでいて、それが過剰になりすぎると他人の目を気にしすぎて生きにくくなってしまうということがある。こういった猛獣をうまくコントロールして生きていくのが、今後の人生において大事だと学ばされた。(796文字)
※上記の感想文はあくまで参考例です。実際に作る際は、各自、文章を改変しながら作るようにして下さい。
まとめ
以上、今回は『山月記』について解説しました。ぜひ定期テストや課題などの参考にして頂ければと思います。なお、本文中の重要語句については以下の記事でまとめています。