絵に色を着けるために使う材料のことを「えのぐ」と言います。ただ、この場合に表記の仕方が問題になってきます。
つまり、「絵の具」と書くのかそれとも「絵具」と書くのかということです。そこで本記事では、「絵の具」と「絵具」の違いや使い分けについて詳しく解説しました。
絵の具の意味
「えのぐ」の「の」は、もともと名詞と名詞を結び付ける働きを持つ連体格助詞の「の」です。
したがって、常用漢字表の音訓欄に従って書き表すならば「絵の具」と書くことになります。
その点では、次に掲げるような語も「絵の具」と同じ扱いのものです。
これらの文法的なルールに則り、現在刊行されている辞典や新聞社・通信社のスタイルブックなどでは、すべて「絵の具」と表記されています。
また、学校の教科書類でも次のようにすべて「絵の具」と書かれています。
絵を見たら、どんな絵の具を使って、どのような表し方をしているか気をつけてみよう。
出典:『図画工作 6』昭和62・12開隆堂出版・小学六年用
ゴッホはあさの布(キャンバス)に油絵の具をもり上がるくらいに使い、
出典:『図画工作 6』昭和62・12開隆堂出版・小学六年用
父の肖像は他の一切のものより重くなければならなかったから、意識的に絵の具の層を厚くして彼に重みをつけた。
出典:『美術・その精神と表現3』昭和63 現代美術社・高等学校用
また、戦後に出版された百科事典などにおいても次のように記述されています。
絵の具 油絵の具 水彩絵の具 岩絵の具 泥絵の具
出典:『世界原色百科事典 1』昭和40・11・小学館
絵具の意味
「絵具」とは「絵の具の間に『の』を入れないで書かれた表記」のことです。要するに、「の」を省略した表記ということです。
同じように、間に「の」を入れないで書かれた言葉には次のようなものがあります。
【昔の人名】⇒紀貫之(きのつらゆき)・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・源義経(みなもとのよしつね)
【現代の姓】⇒井上(いのうえ)・尾上(おのうえ・おのえ)・木下(きのした)
【昔の国名】⇒武蔵国(むさしのくに)・下総国(しもうさのくに)・信濃国(しなののくに)
【その他】⇒日下開山(ひのしたかいさん)・簀子(そのこ)・山手線(やまのてせん)
日本語には古くから「の」を省略した漢字表記が存在していました。そのため、「絵の具」のことも「絵具」と表記する方法が存在するのです。
実際の用例を確認してみると、例えば、国語辞典の見出し表記においては「絵具」もしくは「絵の具」となっているものが多いです。
戦前の国定三期の『尋常小学国語読本』では、次のような用例があります。
手帳・筆・墨・絵具ナドト記シタル看板ヲ出シ、
『尋常小学国語読本』(大正10年)
このように、かつては「絵の具」ではなく「絵具」と書かれていたということです。
しかしながら、上記の用例に関しては看板表記の特殊例と考える見方が妥当です。なぜなら、国定四期の『小学国語読本』ではいずれも「絵の具」と書かれているためです。
海水は、絵の具をとかした水だ。(巻9)
真青な絵の具の水に、クリームを流し込んだ美しさだ。(巻9)
源氏は筆の先に赤い絵の具をつけて、鏡を見ながら、自分の鼻をいたづらに赤くぬって見せた。(巻11)
紫の君は、絵の具がほんたうにしみ込んだら、にいさんがお気の毒だと思った。(巻11)
出典:『小学国語読本』
その他、文学作品での用例を確認してみると、次のようになっています。
その幹から画の具で染めた提灯が幾何(いくつ)もぶら下がっていました。
けれどもそれは彼女が十二三の時の事で、自分が田口に買って貰った絵具と紙を僕の前へ押し付けて無理矢理に描かせたものである。
出典:夏目漱石『彼岸過迄』
夏目漱石が書いた作品『彼岸過迄』では、上記のように両方の表記が確認されています。
ただ、別の作品である『三四郎」『門』『行人』『草枕』『虞美人草』ではすべて「絵の具(計8例)」と書かれています。
また、芥川龍之介の『地獄変』でも、次のように「絵の具」のみの表記です。
昼も蔀(しとみ)を下した部屋の中で、結燈台の火の下に、秘密の絵の具を合わせたり、
出典:芥川龍之介『地獄変』
「絵具」のみが書かれている文学作品は少ないですが、有名な作家だと太宰治が挙げられます。
・遊ぶ金がほしさに、ただ出鱈目にカンヴァスに絵具をぬたくって、流行の勢いに乗り、もったい振って高く売っているのです。
・ただ遊興のための金がほしさに、無我夢中で絵具をカンヴァスにぬたくっているだけなんです。
出典:太宰治『斜陽』
過去の用例を比較すると、「絵具」という表記は現在国語辞典には載っているものの、「絵の具」よりも使われる頻度が少ないものだと分かります。
どっちが正しい表記か?
以上の事から考えますと、「絵の具」と「絵具」はどちらを使っても間違いではないという結論になります。
「絵の具」は、名詞と名詞を結び付ける働きを持つ語である「の」を入れた表記です。一方で、「絵具」は「絵の具」の間にある『の』を省略した表記です。
両方とも「絵に色を着けるために使う材料」を指すことには変わりありません。したがって、どちらを使っても誤りではないのです。
ただ、先述したように常用漢字表の音訓欄に従って書くとすれば「絵の具」と表記するのが正しいということになります。
常用漢字表だと、「絵」という字は音読みの「カイ・エ」のみで、訓読みはありません。
つまり、「絵」という字は「エ」と読むことはあっても「エノ」と読むことはないということです。
そのため、読み書きを専門としている新聞社や通信社などでは「絵の具」と表記するようにしているのです。
他には、常用漢字を元に授業を行っている学校などでも、「絵の具」と表記するのが原則となります。
「絵具」と表記するのは、現在だと絵具自体を製造しているメーカーなどが挙げられます。
絵の具などの画材を扱っているメーカーは、「絵の具」ではなく「絵具」と表記している場合が多いです。
これはつまり、国語的、文法的な言葉としてではなく、絵画としての専門用語として使っているものだと思われます。
「えのぐ」を商品名として表記する場合、限られたスペースだと「絵の具」よりも「絵具」の方が文字数も少なく表記しやすいという事実はあります。
また、「絵具」の方がひらがなが入っていないため、専門的で格式高い印象を与えることができます。
このような理由により、画財の専門メーカーでは「絵具」と表記しているのだと思われます。
まとめ
以上、本記事のまとめです。
「絵の具」=名詞と名詞を結び付ける働きを持つ「の」を入れた表記。
「絵具」=絵の具の間に『の』を入れないで書かれた表記。
「違い」⇒意味自体に違いはないので、どちらを使っても誤りではない。
「使い分け」⇒新聞社、通信社、学校の教科書などでは、常用漢字表に従い「絵の具」を用いる。絵具を扱っている専門のメーカーなどでは「絵具」を用いることが多い。
私たちが一般に使う際には、どちらを使っても問題ありません。ただ、場面によっては使い分ける必要があります。新聞・テレビ・雑誌などの読み書きの世界においては、原則として「絵の具」を使うようにしてください。