『であることとすること』は、高校国語の教科書に出てくる有名な評論文です。ただ、実際に本文を読むとその内容や筆者の主張などが分かりにくいと感じる人も多いと思われます。
そこで今回は、『であることとすること』のあらすじや要約、テスト対策などをわかりやすく解説しました。
『であることとすること』のあらすじ
本文は、行空きによって9つの段落から構成されています。ここでは、各段落ごとのあらすじを簡単に説明していきます。
①近代社会の自由や権利は、現実に行使することにより初めて守られる。そのため、「権利の上に眠る者」は結果的に権利を失ってしまう。
②近代社会の制度は、「『である』こと」からどれだけ「『する』こと」へ移行しているかという見方をすることにより、民主化の実質的な進展の程度や、制度と思考習慣とのギャップなどの事柄を測定することができる。
③徳川時代のような社会では、出生や家柄などの身分的な属性が決定的な役割を担っており、何をするかということよりも、何であるかということが価値判断の重要な基準となる。そこでは、各人がそれぞれの指定された身分や立場に満足してそれ以上望まないことが要求される。
④徳川時代の儒教思想は、典型的な「である」モラルであった。したがって、その人間がいかに振る舞うかという型がおのずから決まっているので、特別な手続きやルールを作らなくても問題なく進むことになる。
⑤「である」論理から「する」論理への移行は、業績を本位とする社会への移行ということになる。ただ、こうした移行は全ての領域に同じテンポで進行したり、自動的に人々の考え方となって価値意識を変えたりするものではない。同じ近代社会といっても、領域による格差、同じ領域での組織の論理、その組織を現実に動かしている人々のモラルの食い違いなどから様々なバリエーションが生まれてくる。
⑥日本の急激な近代化によって起こった宿命的な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靭に「である」価値が根を張り、「する」原理を建て前とする組織が、「である」社会のモラルによって封じ込められたところに起こった。
⑦厄介なのは、「『する』こと」の価値が浸透すべきところでは浸透しておらず、他方で、切実な必要のない面や抑えるべきところでは、かえって効用と能率原理が驚くべき速度で進展している点にある。
⑧学問や芸術の創作活動では、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値がある。文化的創造にとっては、ただ前へ進むとか絶えず働くということよりも、価値の蓄積が何より大事なのである。
⑨現代のような「政治化」の時代においては、深く内に蓄えられたものへの確信に支えられた、文化の立場からする発言や行動によってこそ、「である」価値と「する」価値の倒錯を再転換する道が開かれる。
『であることとすること』の本文解説
本文では繰り返し、「であること」と「すること」の対比が語られています。実はこの二つの違いが分かれば、本文はその具体例を繰り返し用いているだけなので、簡単に理解することができます。
まず「であること」とは「すでに決まっていて、動かない状態」のことです。簡単に言えば、「思考停止状態」のことです。
例えば、「彼は人間である」という一文があったとします。そこにあるのは「人間」であって、「猿」でも「チンパンジー」でもありません。何の疑いもなく「人間」だと決めつけているので「であること」です。
一方で、「すること」とは、その動かない思考停止の状態を不確実なものとして疑い、動いている状態に「すること」です。「人間」だと断定しているが、「猿」かもしれないし「チンパンジー」かもしれない。あるいは「宇宙人」かもしれない。
「~である」と断定してしまうと、そこから先はありません。思考停止の状態です。「~すること」によって、初めて物事を動いている状態にすることができます。
この両者を比較しながら、筆者は様々な具体例を用いて読者に自分の主張を伝えているのです。構成としては第一段落~第九段落までありますが、第一段落の具体例が最も分かりやすいでしょう。
筆者は第一段落で、「権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しない」と述べています。
「権利の上に眠る者」とは、お金を貸したので返してもらえると決めつけて、何もしないでいる人の事を指します。先ほどの説明だと、思考が停止しているので、「であること」に当てはまります。
一方で、「貸した相手にお金を請求する」という行為が「すること」に当てはまります。返してもらうのが当たり前という思考停止の状態から、実際にお金をきちんと返してもらう、という動きを起こしているからです。
民法ではこのように、「であること」(思考停止)に満足して、「すること」(お金の請求)をしないと、自分が貸しているお金を失ってしまう、ということを筆者は言っています。
私たちは様々な「権利」を持っています。例えば、選挙に投票する権利です。
しかし、その権利を持っているということに満足し、実際に使わなければ権利を持っていないのと同じです。これが思考停止の状態、すなわち「であること」(権利を持っているだけの状態)です。
そうではなく、権利というのは実際に行使すること(この場合だと投票)、つまり「する」ことによって守られるということを筆者は述べているのです。
「する」という論理・価値は、広く今の社会を支えるものです。近代の諸制度は、行動することを建て前として成立しているからです。
一方で、物事の状態を重視する「である」論理・価値は、身分社会を支えるものでした。日本の近代化は非常に急激だったので、両者の推移が社会の変化による自然な移行になりませんでした。
そのため、二つの論理の混乱が日本近代の避けがたい問題となったわけです。
この現状を踏まえて、最終的に筆者は「深く内に蓄えられたものへの確信に支えられた文化の立場から、政治への発言・行動をすることこそが、この価値の倒錯の再転倒への道を開く」と述べています。
文化というのは、「である」という状態によって成り立つ世界です。対して、「政治」というのは「する」という現実の行動によって成り立つ世界です。
この二つが結びつくことにより、私たちの社会が抱えている価値倒錯が再転倒する、つまりそれぞれがあるべきところにおさまる理想的な状態になる、と結論付けているということです。
『であることとすること』の200字要約
『であることとすること』のテスト対策問題
次の傍線部の仮名を漢字に直しなさい。
①返事をサイソクする。
②フダンの努力を怠らない。
③味方をヨウゴする。
④結婚をシュクフクする。
⑤トツジョとして現れた。
⑥ダセイで生きる。
⑦考え方がシントウする。
⑧自由をキョウジュする。
「非近代的」=「する」論理・価値を適応すべきところに「である」論理・価値が根を張っている状態。
「過近代的」=必要以上に「する」論理・価値が要求されている状態。
まとめ
今回は『であることとすること』について解説しました。一見難しい評論文ですが、言っていることの本質は終始変わりません。これを機にぜひ正しい理解をして頂ければと思います。なお、本文中の重要語句については以下の記事でまとめています。