「胸を焼く(むねをやく)」という慣用句をご存知でしょうか?
有名な小説、『山月記』の中で登場する表現であり、本作品を読んだことのある人であれば必ず目にするものです。ただ、具体的にどのような心理を表すのか分かりにくい言葉でもあります。
そこで本記事では、「胸を焼く」の意味や使い方、例文、同義語などを詳しく解説しました。
胸を焼くの意味
最初に、「胸を焼く」の意味を辞典で引いてみます。
【胸を焼く(むねをやく)】
=むね(胸)を焦がす
出典 精選版 日本国語大辞典
【胸を焦がす(むねをこがす)】
⇒ひどく思いわずらう。思いこがれる。胸を焼く。
出典 精選版 日本国語大辞典
「胸を焼く(むねをやく)」は、日本国語大辞典だと「胸を焦がす」と同じだと表記されています。そして、「胸を焦がす」の欄を見てみると、「ひどく思いわずらう・思いこがれる」と記述されています。
「思いわずらう」とは「あれこれ考えて悩むこと・苦しむこと」、そして、「思いこがれる」とは「いちずに恋しく思う。ひたすら恋い慕って悩む」という意味です。
つまり、あれこれと考えて思い悩んだり、異性に対して恋い慕って悩むことを「胸を焼く」と言うわけです。
例えば、学生が将来の進路についてあれこれと考えて思い悩むことは「胸を焼くこと」だと言えます。また、意中の女性に対して激しい恋心を抱いて思い悩むことなども「胸を焼くこと」です。
「胸」というのは、ここでは「心」と同じ意味で使われています。ことわざや慣用句では、「胸」=「心」として使われるのが一般的です。
- 「胸に刻む」⇒心に刻む。
- 「胸を痛める」⇒心を痛める。
- 「胸を打つ」⇒心を動かされる。
これと同様に、「胸を焼く」も実際に胸を焼くという意味ではなく、「心が焼かれるようなほど思い悩む」という意味で使われていることになります。
『山月記』での意味
「胸を焼く」という慣用句は、中島敦の短編小説『山月記』の中に登場します。以下、実際の引用部分です。
胸を焼くようなこの悲しみをだれかに訴えたいのだ。おれはゆうべも、あそこで月に向かってほえた。だれかにこの苦しみがわかってもらえないかと。
出典:『山月記』中島敦
『山月記』の主な登場人物は、李徴(りちょう)とその友人である袁傪(えんさん)です。
李徴は、元々難関試験である科挙に合格できるほど優秀な人物でした。ところが、プライドが高く自己顕示欲の高い性格が災いし、あっさりと役人を辞め詩人を目指すことになります。
自分の名前を後世に残すため詩人を目指した彼でしたが、現実は思った通りにいかず生活も困窮することとなります。やむを得ず、李徴は下級の役人となるものの、プライドの高い彼はそれが許せませんでした。
そして、ついに彼は発狂し、人間の姿から虎の姿へと自身を変えてしまうことになります。
一方で、李徴の数少ない友人の一人である袁傪も、同じく科挙に合格した優秀な人物でした。ただ、李徴に比べて温厚な人柄であったため、性格のキツイ彼とも衝突せず友人として関係を続けられていました。
そんな対照的な2人が、時を経て偶然再会することになります。久々の再会に喜んだ両者でしたが、虎になってしまった李徴は、人としての理性を保てる時間が日に日に短くなっていることを伝え、悲しみにくれます。
この時の悲しみが、先ほどの文にあった胸を焼くような悲しみということになります。
つまり、ここでの「胸を焼く」は李徴の死んでも死にきれないほどの思い悩み・苦しみを表した心理ということです。
李徴は、自身が虎になった理由が、臆病な自尊心や尊大な羞恥心による怠惰であるという考えに至ります。
そして、「純粋にプライドを捨てて努力をすればよかったこと」「もう人として詩を伝えることができない」という後悔や苦しみに悶え、涙を流しました。この時の李徴の心理を端的に表した慣用句が「胸を焼く」ということになります。
胸を焼くの類義語
「胸を焼く」の類義語は以下の通りです。
基本的には、あれこれと思い悩んだり苦しむ様子。もしくは恋い焦がれる様子を表した言葉が類義語となります。
この中では、先述したように「胸を焦がす」は同じ意味の慣用句です。したがって、「胸を焦がす」は「胸を焼く」の同義語だと考えて問題ありません。
その他、一般的な語だと「悩む・苦しむ・恋しい」なども広い意味では類義語に含まれます。
胸を焼くの英語訳
「胸を焼く」は、英語だと次のように言います。
「yearn for」(恋い慕う・胸を焦がす)
「long for」(切望する・恋しく思う)
「yearn」は「あこがれる・慕う」などの意味がありますが、後ろに「for」を付けて熟語にすることにより、「恋い慕う」という意味になります。
また、「long」はここでは「長い」という意味ではなく「切望する・思い焦がれる」という意味で使われています。こちらも同じく「for」を付けることで相手の事を思い焦がれている様子を表すことができます。
例文だと、それぞ以下のような言い方です。
I yearn for him.(私は彼を恋しく思う。)
Ken longs for her.(健は彼女に恋い焦がれている。)
胸を焼くの使い方・例文
最後に、「胸を焼く」の使い方を例文で紹介しておきます。
- 高校卒業後の進路に迷い、今は胸を焼くような気分です。
- どうすることもできない現状に、私は胸を焼く感覚に陥った。
- 人生に行き詰まり、胸を焼くような気持ちになることは多々ある。
- 彼女への思いが次第に募り、彼は胸を焼くような心理になった。
- 学生時代に好きだった人と再会し、胸を焼くような気持ちになった。
- あこがれの先輩とついに対面し、胸を焼くような感覚になっています。
- 若い頃、人妻を相手に胸を焼くような激しい恋心を抱いたことがあった。
「胸を焼く」は、例文のように「思い悩む」「恋い慕い悩む」という2つの意味で使われます。1~3の例文が「思い悩むこと」、そして4~7の例文が「恋い慕い悩むこと」という意味での用例です。
どちらの意味でも使うことができますが、普段の文章や日常会話で使われるようなことはほぼありません。実際には、小説文などの中で使われることがほとんどです。
その場合は、「胸を焼く」ではなく「胸を焦がす」という表現になることも多いため、「胸を焦がす」の方も覚えておく方がよいでしょう。
まとめ
以上、本記事のまとめです。
「胸を焼く」=あれこれと考えて思い悩んだり、異性に対して恋い慕って悩むこと。
「山月記での意味」=李徴の死んでも死にきれないほどの思い悩み・苦しみを表した心理。
「類義語」=「思い煩う・思い焦がす・恋しく思う・胸を焦がす・思いが募る」
「英語訳」=「yearn for」「pine for」
「胸を焼く」は『山月記』の中で使われる有名な慣用句です。『山月記』は、学校の国語の教科書でもよく取り上げられる有名な作品です。この機会に、物語の趣旨と合わせて言葉の意味を理解して頂ければと思います。